さめないすーぷ

スープ料理によく使われる食材:コンブについて


日本において、古くから昆布が食べられてきた。当時の中国には大きな昆布は収穫できず日本(琉球・長崎)から昆布が送られていたが、のちには養殖が盛んになっていく。
日本の歴史的な文献に初めて登場するのは続日本紀(797年)である。描写によると、当時の東北では昆布を献上品として納めていた。それにともない日本海沿岸の酒田港や後に下関を経由して大坂の重要な港に出荷されることになる。平安時代延喜式(927年)では、コンブは租税として扱われている。三管領の一家に数えられた細川氏が、元海賊であった水軍の舟で京都に持ち込んだとされる。安土桃山時代には城建築の際に石を滑らせるための材料として使用していた。安土城大阪城でもこの工法が使われている。
戦国時代には、陣中食として昆布が使用されていた。江戸中期には、敦賀が昆布の唯一中継地となり、弘化に入ってから江戸や大坂や各地に広がっていく。特に大坂においては問屋が発展した。蝦夷地(北海道)の開発が盛んになると、北前船などの航路の整備、出荷量の増加などにより全国に広まっていく事になる。とりわけ琉球王朝時代に昆布を中国への朝貢品の主要産物としていて、朝貢には適さない半端モノや下等級品をやむなく工夫して自家消費したことから、のちに伝統料理化する沖縄料理にはよく用いられる。


乾燥させた昆布を湿気の多い大阪で倉庫に寝かせておくと、熟成することで昆布の渋みが無くなり甘みがでてくる。大阪に昆布が広まったのは商用船が日本海航路を通って下関経由で大阪に運ばれるようになってからである。安土桃山時代に農・乾物の一大集積地であった大阪は多湿な気候が乾物や昆布の旨味を熟成させ、江戸時代にはこれらは大阪の味ともされた。
大阪の農産物と交換に蝦夷から運ばれた乾物は、昆布のほか、帆立貝、棒だら、身欠きにしんなどがある。主に商用船は太平洋側を避けて日本海航路で運ばれるようになったことから、大阪より敦賀や小浜で昆布の消費が多くなっている。
また刃物の街である堺の職人により、乾燥昆布を甘酢に浸し表面を削った「おぼろ昆布」が生まれた。昆布表面の黒い部分は甘酢がよく染みていることから、酸味が多い黒い「おぼろ昆布」(黒おぼろ)になる。中でも表面を薄く削ってゆくと、内側の白い部分が出てくる。ここは酢に浸っておらず、昆布本来の甘みがある。この昆布は「太白おぼろ」と呼ばれる。最後に残った昆布の芯の部分はばってら寿司や押しすしに使われるばってら昆布(白板昆布)になる。薄く削るには職人による高等技術が必要とされる。

Wikipedia「コンブ」より